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■所在地 佐々町羽須和免 ■創建者 /佐々
拵(まつたし)・松浦隆信 ■年 代 /不明 |
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城の歴史 戦国時代、平戸に本拠地を置く松浦隆信と相浦は飯盛山に城を構える宗家松浦の丹後守親との争いは永きに渡っていました。永禄6年(1563)8月。平戸の松浦隆信は2,000余騎を率いて相浦飯盛城に拠る松浦親を攻略するため、平戸の白虎山城から出陣して、佐々の東光寺山城に本陣を置きました。戦いは3年に及びましたが、永禄8年、松浦親が、隆信の三男九郎を嗣子(しし)として迎えることで和議が成立して、一世紀にわたる両者の確執はついにとけたのでした。 みどころ東光寺の背後の延長400mの南北に長い丘陵に築かれた城で、北側の丘頂(73m)に本丸、南の尾根(76m)上に二の丸、さらに南の切通しを越えた独立丘(65m)に出丸、本丸西下に館を配置した平山城です。 補 足 松浦隆信が本陣を置いたのは東光寺山城ではなく鳥屋城という説もあります。「印山記」によれば松浦隆信は「一族都合250騎を引率して佐々村鳥屋城を本陣に構え大野次郎左衛門は東光寺に屯す」として、東光寺よりも鳥屋城を重視しています。しかし250騎の軍勢、総数1,000人前後の兵を、鳥屋城に収容することは物理的に無理であり、ここでいう鳥屋城は城下の志方の集落を指すものだと思われます。それとも親方である隆信とそれを守る少数の兵が標高が高く地形の険しい鳥屋城に陣を置き、大野次郎左衛門率いる大半の兵は東光寺山城に陣を構えて鳥屋城を守っていたのかもしれません。いずれにせよ相浦に近い佐々地方に平戸勢の前線基地が置かれたことには変わりはありません。 |
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本丸跡 |
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正面入口 |
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東光寺外観 | ||
東光寺山城外景 | ||