■所在地 /相浦町    ■創建者 /松浦丹後守 親  ■年 代 /天文4年(1535年)〜元和元年(1615年)
■形 式 /山城      ■標 高 /60m          ■遺 構 /曲輪・石塁

城の歴史

大智庵城を落とされ、一度は滅びたかに思われた宗家相浦氏は16代当主親(ちかし)の飯盛城建立により、相浦の地にて復活を遂げました。それからの20年あまりの間、平戸方の再三に渡る攻撃にも城主の松浦丹後守親と家臣の奮闘により屈することなく、宗家相浦の全盛期を迎えました。しかし長期に渡る兵糧攻めと支城の落城により、平戸方に包囲され飯盛城は孤立してしまいます。やむなく松浦丹後守親は平戸の隆信(たかのぶ)の次男九郎親(くろうちかし)を17代当主として養子に迎え、事実上の降伏をします。それからは平戸松浦の支城として、17代九郎親からその子の18代定(さだむ)へと引き継がれ、最後は一国一城令によって取り壊されたと考えられています。

みどころ

実は飯盛城本丸の確実な場所はまだよく分かってないようです。現在分かっているだけでも愛宕山の西側から東側にかけて計4箇所の飯盛城関連の遺構が見つかっています。なかでも東側中腹の遺構は比較的に良好に残っており、佐世保では他に見られない見事な石塁が何層にもわたり、上に延びています。その上段の平場に、井戸跡らしきものがあり、そこに本丸が建っていたのかもしれません。しかし木宮神社付近が本丸跡との説もあり、西側には近年発見された石塁や平場があり、海側を見渡せる場所で、ここに本丸が建っていたのかもしれません。やはり謎です。今後の調査に期待したいです。
1710年(宝永7年)に書かれた「印山記」によると、飯盛城は『高いといえば雲に聳(そび)えるようであり、後は古木が生い茂って陰を作り、東は岩石、麓 は大河、西は青い海が満々としており、そのほかには堀に水をたたえ、香椎川、西方寺口の辺りまで、要害厳しく云々』と述べられています。
この城の歴史は波乱万丈で、平戸方の再三に渡る攻撃を耐え抜いた、堅固な城でもあります。佐世保の戦国史を語る上では欠かせない、とても重要な城跡なので、開拓により埋め立てられることなく新たな発見があることを望みます。

補 足

飯盛城は日本で始めて、戦で鉄砲が使われた場所かも。という面白い説があります。日本に初めて鉄砲が伝来したのは1543年(天文12年)。種子島に漂着したポルトガル人が伝えたと一般的にはいわれています。ところが、新しい研究によると鉄砲を伝えたのはポルトガル人ではなく、彼らを連れてきた中国の海賊、王直(おうちょく)[別名:五峯]だったらしく。その王直は、一説よると1540年(天文9年)に五島に来日し、1542(天文11年)には平戸に館を持ち根拠地としてたといわれています。そして、その時期に 鉄砲も持ち込まれ、翌年の1543(天文12年)に行われた1回目の飯盛城攻めで鉄砲が使用されたという記述が「平戸藩史考」や「松浦隆信公略伝」などいくつかの史書でみられます。それが本当ならば飯盛城は日本で初めて戦場で鉄砲が使われた場所であり、平戸が鉄砲伝来の地といえるのかもしれません。
しかし残念ながらもっとも信用度の高い平戸旧記のなかには1542年に平戸に鉄砲が持ち込まれ同年の飯盛城の戦いで使われたというはっきりとした記述はなく、平戸旧記のひとつ「大曲記」には、飯盛城攻めで、鉄砲を使ったという記録がありますがそれは第2回目の飯盛城攻めのことで年代は1563(永禄6年)のことです。「印山記」にも同様に年代のズレはありますが(※印山記の年代は間違いだと思われる)1566(永禄9年)に飯盛城の戦いで鉄砲を使った記録が書かれてあります。

いずれにしても日本でいち早く鉄砲を戦で使い始めたのは平戸の武士たちであることに間違いはなく、1560年(永禄3年)に大村純忠が天草の須本を攻める際に平戸に援軍を頼み鉄砲隊30人が派遣されその平戸の鉄砲隊の敵を射貫く精度の高さに参加諸軍が驚かされている記録があります。

東側中腹の遠景
東側中腹の城内石塁跡
  東側中腹の城内空掘跡
 
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