千人堂・千人塚 

その小さいお堂は人里離れた山あいにひっそりとたたずんでいる。
1563年(永禄6年)に平戸軍と相松浦軍との戦いがあり、佐々も志方も平戸軍に属し大敗し討死したり自刃したり捕らえられて殺されたと伝えられる。この時の半坂合戦で討死した豪僧伝育坊は志方千人堂の庵寺で育ったと伝えられている。死後その位牌は東光寺に祀ったが、後日志方に妖怪変化が現れるので、伝育坊の霊魂が迷っているのであろうと察した村人が、堂を建て伝育坊の位牌をここに移したのが、千人堂観音像の起源とされている。観音堂の近くに自然石で築いた1基の墓があり、殿様の墓と語り伝えられているが、年代人物は不明、北斗様とも呼ばれ、近所の人が祀っている。

千人堂から左の道を進んだ右手の道沿に古色滄然とした椎の巨木がある。 巨木の裏手に平坦な畑地(約700坪位)がありその上方にあったといわれる紫加田美濃守の館の当時の馬場の跡と云われる。
馬場の跡には黒髪神社があり、お墓にしか見えない神社だが、山にあった黒髪神社をここに移したとのことで紫加田一族の霊を祀っている。
この椎の木は永禄当時の戦いを一部始終観戦したものと思われ、土地の人はこの木を御神木として大切にしている。戦いの時の戦死者の血をも吸いあげて成長したものと思われ、幹まわり6メートル余り、樹高20メートル余り、樹齢は定かでないが、おそらく700〜800年以上のものと推定され、北松一帯でも最大の巨木である。

千人堂から500メートル程離れた所の3アールくらいの田を人切畝町(ひときりうねちょう)と昔から言っている。この田で千人が首を切られ流れ出た血が畔(あぜ)を越えて流れたというような物語が伝えられている。その霊を祀ったほこらが堂から50メートル程離れた民家の裏手にあり、「千人塚」と彫られた石柱が立ててあり巡礼の札所になっていて今も巡礼がたえないという。


<レポート>

ご近所の方には失礼な話かもしれないが、ここは昼間に訪れてもなんとも不気味さが漂っているところで、恥ずかしながら最初に訪れたときは台風で風が強かったせいもあるが、木々のざわめきがまるで侵入者を拒んでいる様に不気味で、日中にもかかわらず椎の巨木から奥へは怖くていけなかった。
伝育坊そして首を切られた千の武士の怨念とそれを知る巨木の存在。450年ほどたった今でも当時の空気をどこかしら感じさせてくれる場所だった。


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