半坂合戦 印山記または続・松浦党戦記より(一部書き加え)

二年の役がはじまって間もなく、相神浦松浦氏は、飯盛城周辺に砦を築き、東時忠らの東一党を蜂の久保に配置し平戸松浦の攻撃に備えていた。一方、平戸松浦方は本陣を佐々の鳥屋城に構え、前線基地として、東光寺城大野次郎右衛門定晨(さだとき)を大将に置き、兵を構えていた。

時は、永禄7年8月1日
大野次郎右衛門定晨はいよいよ蜂の久保砦を落とそうと、出陣の支度をしていた。そのような時に、東光寺の老僧が定晨に申し出てきた、「自分の弟子に伝育といって幼いときより召し使っている豪傑の僧がおります。力は三・四人にも匹敵することでしょう、連れていきませんか」ということだった。それならばといって呼び出してみれば、その身の丈は七尺(2m12cm)、眼は三角で、胸や手足に至るまで毛深い巨漢の若者が、黒糸縅の鎧、星白の冑を猪首に着こなし、三尺余り(約1メートル)の太刀を腰に差し、筋金を入れた樫の木の棒を持って立っていた。「おお、これは良き坊だ!」定晨は悦んでこの者をつれていくことにした。

蜂の久保砦への攻撃は午前8時ごろに開始された。砦内からは宗家松浦の勇将、東五郎秀勝が百騎ばかりを率いて、その大手口の半坂へ出合い防戦した、双方入り乱れて戦ったが、追い下し追いおろされ勝負がつかなかった。そのような中、伝育は例の棒を振って暴れ回り、敵兵を叩き潰しながら左右をはたとにらみ威嚇するため、敵兵は恐れをなして砦内部へ逃げ込んでしまったため戦はしばらく止んでいた。

午後四時頃になって、砦内より東四郎秀次と名乗る武者が十四・五騎を率いて討って出てきた。鬨の声をあげる東四郎秀次に、伝育は堪えきれずに進み出て、「ああ哀れなことよ、この棒で彼奴等を打ち殺してくれよう」と踊り上り踊り上りして棒を振りまわした。ある者は兜をひしがれ、ある者はすねをなぎ倒され、倒れ伏す者が多かったので、秀次も「これはかなわん」と引き退いた。それを見た伝育は、「卑怯者、帰ってこい」と追いかけた、が、その伝育の運命を見舞ったのは砦より放たれた一本の矢であった。砦内より見事に放たれた一本の矢が伝育の眉間に命中し、頭部を貫き首筋までつき通ったので、伝育はどっと倒れて即死してしまった。

その後、東光寺の老僧も錣(しころ)の糸もすり切れた鎧を着て、この合戦場へとやって来て、今日の勝負はどうであったろうかと尋ねてきたが、伝育の討死を聞いて、「ああ、生き甲斐がなくなった」とその日の夜中に長刀を横たへ敵陣へと駆けて入ったのであった。「老僧を討たすな、続け続け!」と定晨は部下に命じて、味方の数十騎が打ってかかり戦ったが、老僧は敵兵に囲まれ討死してしまったのであった。この日の戦いで、平戸方の有力武将である一部大和守も討死したようである。

結果としてこの合戦は八の久保砦を落せなかった平戸方の負けであり、まだまだ宗家松浦方の防御の壁が厚いことが再認識された一戦であった。
その後、ふたたび平戸方は東光寺城へと後退し、飯盛城を兵糧攻めのために包囲することとなる。


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