城の歴史
現在の城山町の上の丘(城山と呼ばれている)に約500年ほど前の戦国時代から、佐世保城があったことがいくつかの書籍に記載されているそうです。城主が誰であったかはっきりしないところがあるようですが、大智庵城主の丹後守政(たんごのかみまさし)の弟、松浦丹後源三郎諌(いさむ)が佐世保を領して、佐世保諌(させぼいさむ)を名乗り、佐世保城を築城したと伝えられています。
諌の死後、遠藤但馬守(えんどうたじまのかみ)が城主となりますが飯盛城主、九郎親の策略により佐賀の龍造寺氏に内通したとして、だまし討ちにされてしまいます。その後は、遠藤但馬守の娘婿(むすめむこ)であった赤崎伊予守(あかさきいよのかみ)が城主になったと言われています。
みどころ
亀山八幡神社の北側の路地を左方向へ登っていった突き当たりに更に上へと続く狭い階段があります。階段を登ると台風により倒れた巨木が道をふさいでいますが、それをくぐり少しの登りきったところに、崖を削って道を造った切り通しの場所にでます。そこは人の背丈の2 倍ほどもある切り通しで、佐世保城の堀切跡ともいわれています。
向かって右の崖を登れば出丸方向。左の崖を登って雑木林を進むと先端部分に本丸跡があります。本丸跡には石塁が多く残されており、雑木林をぬけて光が差し込む場所に忽然と姿を現した古代遺跡を思わせる独特の雰囲気に包まれています。
佐世保城は城山町バス停の東の方、烏帽子岳の山すそがくだっているその先端部分の丘陵(きゅうりょう)を利用してつくられました。幾層もの段をなしてのびる土塁。敵の侵入を防ぐ竪堀、本丸のまわりの石積など今もはっきりと、中世の山城としての跡形(あとかた)が残っています。佐世保城は湧き水もないことから日常の生活には向いておらず。ここの城主は、普段は城の麓(ふもと)に築いた館で生活して、いざ戦いとなったときに城に立て籠もっていたと思われます。頂上に立ってみると、うしろには烏帽子岳、三方は絶壁、その前には佐世保川の河谷(かこく)が見られ、規模は小さいですが、まさに、中世の山城として、絶好の地であったことがしのばれます。
補 足
実は現在の清水中学校裏にある西公園(保立公園)も鼻繰城跡(はなぐりじょう)といわれており、ここが佐世保城跡とする説もあります。
一部の文献には「遠藤但馬守は城を今の中通り鼻繰の東方に築き、佐世保城主として日宇方面の監督を兼ねていた」というような記述も見られ、また赤崎伊予守の屋敷が中通免にあったという記述もあります。
このようなことからも佐世保諌が築いた現在の城山町の城は遠藤但馬守と赤崎伊予守の時代には本城を鼻繰城に移し、支城として使っていたのかもしれません。それは大智庵城と瀬戸越城の関係にも似ていて、佐世保川を挟んで1kmの距離にある2つの城は、今よりも川幅が広かった佐世保川を登り、進入してくる敵方を撃退するための城として共に機能していたのでしょう。
今は保立公園となり利用されている鼻繰城跡は戦前、砲兵隊の演習場として使われた際に丘の頂上が削られ本丸跡と思われる遺構は失われています。しかし公園の北側に土塁・段築・石塁などの遺構が無傷で残されています。
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