■所在地 /瀬戸越3丁目12 ■創建者 /松浦丹後守 定  ■年 代 /延徳2(1490)〜明応7年(1498)  
■形 式 /山城  ■標 高 /70m ■遺 構 /曲輪・土塁・空堀・石塁

城の歴史

宗家松浦氏(そうけまつうらし)は相浦の武辺城(たけべじょう)を本城としていましたが、第14代 定(さだし)のときに北の平戸松浦,南の大村などの諸豪にそなえ、1490年(延徳二)に今の瀬戸越町の小高い山に城を築いて移りました。しかし、15代の政(まさし)の代になり、明応7年(1498年)12月23日、平戸の松浦弘定(ひろさだ)夜襲(大智庵城夜討ち)を受け一夜にして落城。城主の政は妻と子の幸松丸(こうまつまる)とともに、佐々方面に逃亡します。
しかし、逃亡中に一行は平戸勢に発見され、政は自害。妻と子は、人質として平戸に連れ去られました。

みどころ

佐世保工業高校の真向かいの急な上り坂を登ると大智庵長命寺があります。その先へ続く幅の広い階段をゆっくりカーブしながら頂上へと登っていくと。5分ほどで楕円形状に開けた広場に着きます。ここが大智庵城の本丸跡地です。
広場の東側にお墓と案内板があり、向かって左側の石碑が宗家松浦第15代当主、丹後守政のお墓です。もとは志賀神社の鳥居近くにあったものを戦前ここに移したということです。
松浦家蔵の「大智庵城古図」によると、この場所は三方を取り囲むようにして流れる小川を外濠に、北は急ながけで約70m岩がむき出しで立って登ることができない位だった。それを越えてもさらに急な崖。これを登るとやっと空濠をめぐらした本丸に達する。大手門から後門まで約300mという規模の城だったといわれています。
たしかに、現在でも城跡を取り巻くように流れる紋珠川沿いには切り立つような崖の様子が見て取れます。

「規模の大きい武辺城からここへ本城を移した理由が分からない」という疑問の声があります。たしかにここに城があったことを想像すると、とても狭く感じます。付近の小山にいくつか出丸があったようですが、それでも、宗家松浦氏の当主が住む居城にしては狭く感じます。しかしそれは現在見る風景からの感想であって、当時の城の風貌は今とはだいぶ違っていたと思われます。
西側にある紋珠岳は瀬戸越城跡ともいわれ、大智庵城ができる前から宗家松浦の支城として機能していました。大智庵城が出来てからは城の砦として利用されていたものと思われ、その2つの城の間には現在では線路となっていますが、水濠があり、それを渡って一本の通路によって2つの城は結ばれていたことが古図の一文によって分かっています。更に周辺の地名を見ると本城のあった「城山」をはじめ、その前方には「大門」現在の労災病院あたりは「屋舗間」といい家臣達の屋敷が並ぶ城下だったと思われます。城の裏手には「城之口」というように城に関する小字が多く残っており、付近には戦死者の者と思われる五輪の墓も多数散布していました。
それらのことを総合して考えると、大智庵城公園から紋珠岳、武家屋敷跡の工業高校から労災病院付近の瀬戸越地区一帯が宗家松浦本城の縄張りとして機能していたのではないかと思われます。そうなった場合の規模は武辺城に決して引けをとらない大規模な城だったでしょう。都市部にある城跡の宿命でしょうか、宅地化により本丸のみが丸裸になった現在の大智庵城は確かにさびしく見えます。

補 足

自害した15代政の子、幸松丸は平戸へ連れ去られ、宗家松浦氏は没落したかに思えました。しかし、その後、宗家松浦氏の旧臣によって幸松丸は奪還され、西有田の唐船城(とうせんじょう)で育った後、大宰府の小弐氏(しょうにし)の後ろ盾もあり、丹後守親(たんごのかみちかし)と名乗り、今の愛宕山に飯盛城(いいもりじょう)を築き、復活を遂げました。

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大智庵城周辺の地図(左図)と小字図(右図) ※クリックすると大きく表示します。
大智庵城周辺の位置関係 ※クリックすると大きく表示します。
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