広田城合戦 印山記また郷土早岐の研究より(一部書き加えあり)

1586年天正14年。事前に大村・有馬・有田・波多の連合軍が攻めてくるという情報を得ていた平戸方は南方面最前線の城、井手平城に、城主岡甚右衛門ほか堀江大学など都合300人を配置し、そこから4キロほど離れたとこにある広田城に城主の佐々清左衛門入道加雲をはじめ、佐志方杢兵衛入道善房川尻椎葉野中八並等の武士350人が立て籠もり、きたるべき戦いに備えていた。

1586年天正14年4月19日。寄手はまず井手平城を包囲し、城中の兵達は死を決して戦ったが、圧倒的な数の多さで勝る連合軍に井手平城は落城してしまう。数人の兵士が命辛々逃れてきて、ほとんどの兵が討ち死にしたとの状況を報告した。

さて、連合軍は井手平城を攻め落としたので「今日一日休息をとり、人馬を休めて一挙に広田城を攻め落とそう」と評議していたとき、突然の飛報があった、それは平戸の松浦鎭信が大軍を率いて海陸から進んで応援にくるとのことだった。また一方、有馬からの急報が来たのは、領土内で内乱が起こって大変であるから有馬勢は急いで帰陣せよとのことであったので有馬軍は帰ってしまった。相次ぐ飛報に色を失ってしまった連合軍は人数も500人足らずまで減り、その上長い間の陣で、嫌気がさして帰りたいと思う者もでてきて、士気が下がっていた。そのような中、左高が進み出て申すには「いままで四家の侍が一味となって、先ず井手平城を攻めたのは、広田を落とすための方策であった。そうであれば、たとえ残りの兵が少なくとも勢いは強い。どうして城取りが出来ないことがあろうか。鎭信が軍勢を出せば、千人の兵が一人になっても、広田を枕として討ち死にすることこそ本意である。聞き怖しておめおめと引き退くことこそ不甲斐なしというものだ。さあひと寄せ攻撃してやろう!」と励ませば一同評議一決で明朝の攻撃開始を決定した。その夜、威勢堂々として広田城に向かって進み、城の対岸に位置する早岐の海岸まで来て一夜を明かした。

時は、1586年天正14年4月25日。朝10時頃。
連合軍は海岸より鯨波を揚げて広田城に肉迫し、関の声を揚げた。けれども城中は静まりかえって音もしなかった。城中には人が居ないのではあるまいかと思わせるほど静かだった。そこで連合軍は構わず突入の令をだした。数多の兵士が外濠に添って城壁をよじ登り今や城内に躍り込もうとしたその時、櫓の上から大岩石を投げ落とし、続いて射り出す矢は雨霰(あめあられ)の如く兵士たちに降り注ぎ、寄手はたちまち大破して莫大な損害を負って退却した。それ以降、城内は堅く門を閉ざし守りにはいったため、容易に近づくことができず、ただ、糧食飲料をたつのを謀計するより他はなかった。
そんな状態で3日がたった4月28日。広田城内で歓喜の声が上がった、早岐方面から三星の旗印を押したてて、海陸から並び進んでくる雲霞(うんか)の如き大軍こそ言うまでもない松浦鎭信ひきいる援兵であった。それを見た連合軍は意気消失してしまった、これを見た城内の兵は一同に大木戸、小木戸の城門を押し開けて、たちまちのうちに攻勢を取った。寄手は大混乱となり、城兵は追撃して、討ち取ったその数、86人という多数であった。松浦鎭信の兵船は住吉神社方面に転じて上陸し、連合軍を撃破した。

こうして生き残った連合軍は宮村まで引き退き諸卒を集め、ひと所に幕を打ち並べ休んでいたところに、鎭信は大勢を従え打ち出したので、陣中は騒動して撤退した。この時、小値賀近藤松崎も葛の浦まで先手をして、鎭信に忠節を尽くしたという。応援の戦であるのでそれ以上の追撃はせず、早岐へ引き返した。広田城内では凱歌を奏し、一月ほど逗留したのち松浦鎮信は平戸へ凱旋した。


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