■所在地 /新替町 ■創建者 /平戸松浦鎮信 ■年 代 /天正元年(1573年)〜天正20年(1592年)
■形 式 /山城 ■標 高 /50m ■遺 構 /曲輪・土塁・空堀・堀切・竪堀・平場・石碑

城の歴史

戦国時代も終わりを迎える頃、三川内は平戸松浦氏の領地でした。そして、小森川を挟んで向こう側が大村領だったと考えられています。井出平城は広田城と並び、平戸松浦氏の最前線の城だったようです。1586年4月にこの城を大村氏がひそかに島原の有馬氏、西有田氏、唐津の波多氏と連合して攻めました。城内には城主の岡甚右衛門(おかじんえもん)を始め300人ほどの兵が守っていましたが、不意をついた夜襲であったらしく、この戦いで城主の岡甚右衛門と長男、次男、そして副将の堀江大学(ほりえだいがく)などほぼ全員が討ち取られてしまいました。落城後、広田城で大村の連合軍を追い返した平戸松浦氏は井出平城の戦いでの戦死者を弔うために、城の麓(ふもと)に薬王寺を立てました。

みどころ

城跡には大きな郭が2ヶ所あります。本丸は薬王寺の東にある丘の頂上にあって、直径約50mの二重の土塁に囲まれた平場となっています。もう一つが東出郭(ひがしでくるわ)と呼ばれるもので、、本丸の谷を挟んだ北側にあります。こちらの中心部は、幅約20m、長さ40メートルの方形の土塁に囲まれた区画になり、東側は小森川へ落ちる急な崖、背後の尾根に2本の空堀、南にも数本の空堀、さらに西の谷底には小さな堤でせき止めた水堀が3つ並んでいます。
発掘では、本丸には遺物がほとんどなく、東出郭からは中国製の茶碗や皿、小刀(しょうとう)、鉄鏃(てつぞく)、刀の鍔(つば)、鉄砲玉などが見つかりました。また、笄(こうがい)と呼ぶ武士が髪を整える道具、火鉢や炭壺(すみつぼ)、調理に使うすり鉢(ばち)や挽(ひ)き臼(うす)など豊富な遺物が発見されています。
遺物の出方から見ると、落城したものの、火災にはあっておらず、建物はそのまま残っていたようです。
このようなことから、東出郭に城主岡甚右衛門の屋敷があったようです。本丸は本格的な戦いの時に立て籠もったものか、あるいは見張り台のような役割があったのかもしれません。
比較的に散策しやすい城跡で、丁寧な案内板が各所に建てられていて本丸から水堀り沿いを通り、東出丸へとわりとスムーズに散策できます。
他の城跡にない特徴といえば、本丸を取り囲む空堀に建っている12体の石仏群です。まさに本丸を取り囲むように同じ方向を向いてまるで本丸を見守っているかのように建っています。他にも城内のいたるところに戦死者供養のための観音石仏があります。そして 薬王寺の山門をくぐると、城主である岡甚右衛門親子の供養碑があります。この供養碑は岡右甚衛門の遺族が落城から30年後の1616年(元和2)つまり30回忌に合わせて建てたものです。ほかにも本丸と東出郭の間の谷を出たところに、戦死者の墓と伝えられる千人塚があります。このような城跡の周辺にある遺物などから、落城後の残された人々の死者に対する思いが色濃く残る城跡です。

補 足

なぜ井手平城の戦いが起きたのかですが、その頃の大村氏は佐賀の龍造寺氏の配下におかれ、抑えられていました。ところが沖田畷(おきたなわて)の戦いによって龍造寺隆信が戦死したことにより、再び大村氏が復活して自由に動けるようになったことと、もう一つは豊臣秀吉の天下統一による影響です。この頃は秀吉が本州を制し、九州平定目前の時期だったため、平定後の領地の安堵の前に自分の領地を広げておきたいという大村氏の思惑があり、駆け込みで領地の奪還を図ったのではないかと思われます。

遠 景(薬王寺方面より)
本 丸
薬王寺(岡甚右衛門親子の供養塔)
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