大智庵城夜討ち 印山記より(一部書き加えあり)

1498年明応7年3月。宗家松浦15代当主丹後守政は相神浦・有田・今福・黒島を領地として現在の大野町に大智庵城を構えていた、そんなある日、政は崎辺で巻狩りを催した。それは石岳山の南の野を取り巻いて轡(くつわ)を並べ、射手をそろえ、足軽や民百姓は山を切り、野に火を放ち獣を狩り出すという大規模なものだった。
数多くの獣が飛び出してくるなか、鹿が一匹当主である政の前を走り去ったので家来の山田四郎右衛門が追いかけて行きそれを射止めた。ところがそれを見た政は出過ぎたふるまいであると大変怒って山田四郎右衛門と文左衛門の兄弟を追放してしまう。追い出された山田兄弟は途方にくれ平戸に城を構える平戸興信を頼って行った、大智庵城の内情に詳しい二人を招き入れた興信はかねてより機会をうかがっていた宗家松浦討伐を決意し、大智庵城攻めを発令した。

時は、1498年明応7年12月23日。大野源五郎定久を大将として、南入道宗智(みなみにゅうどうむねとも)西玄番(にしげんば)加藤左馬(かとうさま)近藤一部(いちぶ)篭手田(こてだ)小佐々田平の一族、都合二百騎は山田兄弟の案内のもと同夜の真夜中に夜陰に紛れ、半坂、皆瀬を通って大智庵城に押し寄せた。まず軍を大手と搦手(からめて)の二手に分けて、さらに山田兄弟の助言により知り得た、北の方角の人の知らない細道より少人数で忍び入るという戦法をたてた。

頃合いをみて、まず大手・搦手から一斉に関の声をあげた。城方も大手からの攻め口を真っ先に守っていたが、山田兄弟の先導により細道を駆け上ってきた一団はまんまと城内に忍び入り、家々に火を放った。思いもよらぬ方角より焼きたてられ、城方の侍たちはおおいに慌てふためき、勢いづいた一団は逃げ惑う侍達を追いかけ切り伏せていった。

「政はどこにいるか」と探しているところに、政が太刀をひっさげ、小姓二人を召し連れて現れた。山田兄弟は名のりを上げ、「殿、御自害を」と勧めた。小姓が政の御袖をひき、「御自害は心静かになさってください」と言って政を奥へ案内したが政は怒り狂い「狼藉は山田か、主君に背き天罰を知れ!」と小刀・長刀を振り回すので、それを見た山田もさすがに気色が悪そうに見えた。

このようなあいだに大手と搦手より寄手が乱入し、城内各所で火が盛んに燃え広がり落城は目前に迫った時、ついに城主の政は覚悟を決め自害した。仕えていた小姓も討ち死にした。
そうして見事一夜にして城を落とし勝利した平戸方は、政の御首を取って、内室と子の幸松丸を生け捕って夜中に平戸へ帰っていった。


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