井手平城合戦 印山記より(一部書き加えあり)

1586年天正14年。事前に大村・有馬・有田・波多の連合軍が攻めてくるという情報を得ていた平戸方は、南方面最前線の城、井手平城に、城主岡甚右衛門、その長男と次男、副将の堀江大学、松口六左衛門、岡野甚太郎、長峰久助、悪多々佐市、武雄秀ト、丸田宮内、山田久之丞、迎兵部、大渉野左馬、中倉甲右衛門、中倉太右衛門、吉田九郎右衛門、山口権左衛門、小佐々伊豫、友永主殿などの都合300人を配置し、きたるべき戦いに備えていた。

時は、1586年天正14年4月19日。寄手の波多・有田の軍は内野口より、有馬・大村の軍は神徳寺より巡り城を三重四重にとり巻いた、まず一斉に矢軍による攻撃をかけ、続けざまに鉄砲隊による攻撃をかけてきた。城側も矢と鉄砲で応戦した、矢が飛び交い火花が散る壮絶な打ち合いとなり、両軍とも半分以上の兵は討たれて、いったん相引きに引いた。しかし、なにぶん連合軍は大勢であり、新手を入れ替え入れ替え、次から次に休まず攻撃してきたので、小勢である城中は数度の攻撃に討死する者が多くなっていき、人数も残り少なくなってきた。けれども、もはや死を決した兵達であり、手強く、その気迫に寄手は少々ひるんだ。それを見た波多軍の波多源次兵衛は馬を乗り巡らし、「しっかり戦え!多くの兵がこのように一・二の木戸口まで攻め寄せている。しかも小勢が籠もっただけの葉城ではないか!どうしてつぶれないことがあろうか!」と叱咤したのでふたたび寄手は勢いづいた。城中では、かねてよりここを墓所と決めていたので、女・子供を山路より終夜、広田城へ逃がし、命を塵芥(じんかい)より軽くし、心中は爽やかになっていた。

ここに紐指(ひもさし)の薬師坊という強者がいた。薬師坊は松口六左衛門の幼子を日頃より預かりおくほどの因縁であったが、この度は難儀なことになったと聞いて、井手平城へ駆けつけていた。椎葉安芸紫加田鷲之丞是も城中によしみにしている人がいるということで加勢にきていた。この3人が来たのは劣勢の状況の中、大勢の与力を得た心地がし、大変心強かった。
夜が明ければ、今日を最後の盃をくみかわし、岡野甚太郎は長刀を横たえ、敵の中へ何のためらいもなく懸け入って、四・五人を切り伏せ討ち死にした。椎葉市六紫加田左助も長刀を打かたげ、大勢の中へ斬って入り討ち死にした。薬師坊は、萌黄縅(もえぎおどし)の腹巻に、白布の鉢巻をし、長刀を横に抱え敵の中へ飛んで入り切り伏せ、胴を切り戦った。合間に波多源次兵衛の姿を目にかけたけれども、源次兵衛の運が強かったのだろう、間近にいなかったので咎(とが)のない者を殺すことは益(えき)なしと思い止まった。城中に帰って見れば、松口六左衛門はすでに切腹し、松口の末っ子の小五郎(13 歳)は腹を切ろうと、推膚抜いでいるのが見えた。「いかに小五郎殿、親のためには敵の一人も討ち取ることこそ孝行であろう」と引き立て、小五郎と共にまた敵の中へかけ入り、一つ枕に討ち死にを遂げた。瓜生(うりゅう)の義かん坊(ぎかんぼう)が新田義治を預った昔の行いも、薬師坊が小五郎を引き連れ討たれた今の行いも、忠義の心は変わらないものである。

そうして遂には、城に残った兵は椎葉安芸紫加田鷲之丞をはじめ、十二・三人だけとなっていた。いよいよ正念場だと残った武士達は大刀を抜き敵の中へ一団となって打ち出した。わき目も振らずに戦い、一人二人と討ち死にしていくなか、椎葉と紫加田は身に傷を負うのを物の数ともせず、敵中を突破し、広田を目指して駆けていた。しばらくすると前方に敵方の兵が行く手をふさいで立っていた「落武者が通るぞ、逃がすな!」と騒ぐので、「お前たちは何をあわてているか。」と目をいからせれば敵方もその迫力に押され、味方と思い通してしまった。それでもなお疑わしく思ったのであろうか、四・五人が追いかけてきたので引き返して打ち払い、広田城へ馳せ帰った。振り返り井手平城の方角を見れば、黒煙がもくもくと天に上っていたという。


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