平戸松浦家家臣
中倉甲右衛門
なかくらこうえもん

中倉甲右衛門という人は永禄から天正にかけて音に聞こえた剛勇の士であったらしく。その名はしばしば古書に登場する。
その要点を摘記してみる

永禄6年(1563)8月14日平戸勢の相神浦飯盛城攻撃に平戸方として参加。
元亀3年12月28日佐世保城主遠藤但馬守が龍造寺氏に内通したとして、討たれた際にその遠藤の長男である右近の討手に佐々清右衛門、佐志方杢兵衛、悪太左市、中倉甲右衛門を差し向け早岐城にて右近を捕殺した。
天正年間、針尾三郎左衛門がある時は大村藩に属し、またある時は平戸藩に属するなど一心不定なることを苦々しく思い、中倉甲右衛門は、悪太左市と謀り、舟より上がりくる三郎左衛門を甲右衛門が走り出て胸を突き、左市がその首を打ち落とした。
天正14年4月19日有馬、大村、波多、有田の連合軍が井手平城を包囲攻撃した際、籠城し奮戦した。
慶長3年11月18日豊臣秀吉死去のため朝鮮へ出兵中の日本軍が引き上げる際に明兵3万余りと海陸で激突し勝利するも、この時の戦いで味方の士3名、大曲主水、中倉甲右衛門、山田四郎左衛門と雑兵13名討死とあるがその墓所も定かではない。
権常寺の天満宮に供養碑があるがそこには慶長8年12月25日卒とあり死亡年月も定かではなく。先に記載した中倉甲右衛門全てが同一人物なのかもはっきりとはしないが、中倉甲右衛門という名の武人が早岐地方を中心に躍動していたことは確かであり、その名を遠方にまで轟かせていたのである。