平戸家家臣 深江城城主
深江将監忠昌
ふかえ しょうげん ただあき
[生年不明〜1614年7月]
この忠昌の生涯については諸説いろいろあり明確にはわかっていない。しかし近年言われている最も有力な説を記載しておく。
平戸藩の古文書によれば、深江将監は平戸藩最高の一千石の家老となり、第26代法印公鎮信が秀吉に従って朝鮮に出陣した折は留守居役を務めている。「御四代に奉歴任重職」とあり、25代道可隆信、26代法印鎮信、27代泰岳久信、28代宗陽隆信に仕えたものと考えられている。
また、古文書に「急病死」したとの記録もあるが、慶長19(1614)年5月26日の鎮信の死から40余日にして自害していることから、法印公鎮信の死に殉じて追腹を切ったという説がもっとも有力かと思われる。
他に平戸松浦軍に攻められ自害した。平戸方に付くのを拒み自害したなどの説があるが、どちらも腑に落ちない点が多い。
元々深江氏とは志佐純本の三男である純忠が江迎を領したのがはじまりで、その純忠の長男が深江将監忠昌この人である。佐々町の寿福寺には深江氏3代(志佐純本ー深江純忠ー深江忠昌)の墓があり、西門の下には「深江将監自刃の跡地」として石碑が立ち、今でも香花が手向けられている。 こちら→