城の歴史
平安時代の末期より徳川の初期に至るまで460余年の間、存在し続けた古城で、福井川を外堀にして、牧の岳を軍馬の牧場とした雄大なものであったと言われています。
しかしこの城は堅固な構えにもかかわらず、3度にわたる落城の歴史があります。もともとは古くよりこの地方を治めていた志佐氏の居城でしたが、1495年(明応4)に佐賀の龍造寺(りゅうぞうじ)と大村氏との連合軍による攻撃で志佐氏は一旦は消滅します。その後、平戸松浦氏から城主が入り代わって志佐氏を名乗ります。そして志佐氏の跡継ぎを巡って志佐純量(しさすみはる)と純意(すみもと)との争いがおき、この争いに平戸松浦氏と島原の有馬氏が割り込んできます。結局は純量(すみはる)がまだ11歳だったこともあり、平戸松浦の支援を受けた純意(すみもと)が城主となり純量(すみはる)は母親の実家である有馬氏の下に身を寄せました。数年後、成長した純量(すみはる)は直谷城の奪還をもくろみ有馬氏から300人の兵をかりて夜襲をかけ、城を占領してしまいます。ですが、すぐに純意(すみもと)を慕う家臣や、平戸松浦氏から攻められ、直谷城を捨てざるをえませんでした。そして、島原に逃げ帰る途中に笥瀬祝田原で世知原修理(せちばるしゅうり)と都蔵寺式部(とぞうじしきぶ)の軍勢に攻撃され純量(すみはる)はこの戦で戦死したともいわれています。いっぽうの純意(すみもと)は平戸松浦の家臣として秀吉の令による朝鮮出兵の最中に病死し、嫡男の純高(すみたか)も朝鮮で戦死してしまい、志佐氏は断絶してしまいました。その後、城主不在のまま、1615(元和元年)、一国一城令によって廃城となりました。
みどころ
城のある内裏山は、周囲が切り立った崖に囲まれていて、天然の地形を利用して城の守りとしています。中心部には南北約40メートル、東西約50メートルの主郭があり、その東と西にはそれぞれ「天守台」、「櫓台(やぐらだい)と呼ばれている高台があります。本丸の周辺には主郭(しゅかく)を守る二の丸や帯郭(おびぐるわ)、武者溜り、矢石置き場、裏木戸などが配置され、大変複雑な構造になっています。
大手道には、4重の土塁と空堀があって守りを固めており、場内には井戸も残っています。
1988年(昭和63年)から行われた発掘調査では、主郭跡から、柱穴や排水溝とともに、多数の中国の焼き物を含む生活遺物が出土しました。この場所で志佐氏とその家族、そして家臣達が暮らしていたことは確かなようです。
直谷城は保存状態も良く山城の遺構として大変重要なため、県の史跡に指定されています。
補 足
伝説では壇ノ浦の戦いで入水自殺したといわれる安徳天皇が実は生きていて直谷城を仮の住まいとしたといいます。そのため、城のある山を「内裏山(ないりやま)」と呼ぶようになったということです。
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