相当ヶ原の合戦 平川定美氏書また印山記より(一部書き加え)
相神浦飯盛城主松浦丹後守親は子が無く有馬修理太夫の二男五郎盛を養子としたが、どういう訳か相神浦二年の役の際に有馬に呼び帰されており、養父親の苦戦を他事し、実父・修理の許に居た。二年の役が終わり平戸の隆信と和睦の後、親は隆信の三男、九郎親を世継ぎとして養子とした。
永禄10年になり五郎盛がひょう然として相神浦に帰ってきたので親はその措置に苦しんだ。この場合、五郎盛を有馬に返せば、有馬と一戦を交えねばならず、平戸に九郎を返せば、たちまち和睦は破れて再び戦を交えねばならぬというので、思案の末に五郎盛を有田の唐船城に居城せしめた。しかし五郎盛は満足せず自分の留守中に養父の親が単に相神浦の勢力を回復したいという攻略上の欲求から自分という養子がありながら、代々犬猿の仲でありながら、平戸の隆信の三男九郎を養子としたことを無念に思い、相神浦飯盛城の跡継ぎとするとは何たることか、まったくもってのほかであると烈火の如く怒った。それからというもの常に反逆の機をうかがっていたのである。「家運挽回のためとはいえ、ひどい仕打である。親として親たらずば、子また子たらずの道理(親としての義務も果たさないのならば子とて果たさないのが当たり前)怨みは必ず報いるぞ」と五郎盛は実父・修理の家老有馬将監と相談し、飯盛城攻略のはかりごとに余年がなかった。
飯盛城主親は山本右京の密告により五郎盛の逆心を知り、ことのてんまつを平戸に急報したので、平戸松浦はこれを見逃すわけにはいかず、すぐに援兵300人余りを率いて、鎭信みずから大野村原分田原まで出陣し、元亀3年1月2日、相神浦勢と合流した。
時は1572年元亀3年1月20日。
さむぞらのした雪の降るなか、相神浦勢200余騎、平戸勢300余騎、総勢500余騎を二手に分けて、柚木村一の坂口に伏兵を置き五郎盛の襲来を今か今かと待ち構えていた。そうとは知らない五郎盛は一気に相神浦を押し潰さんと、こちらも500人余の軍勢で勢い鋭く押し寄せていた所を鎭信の伏兵により撃たれて相当原まで退き、そこで激しい戦いとなった。両将はもともと一家の家来であるので、血の繋がった親子兄弟が互いに怨敵となる修羅場となりこれ以上に悲しい戦はなかった。甲斐瀬左衛門は兄の首を取って帰ってきたが、とある木陰に馬の足を休めている男を見つけ遠矢で射落した。近くに寄って見れば、これは自分の父美濃であった。「心ならずも、五逆の罪をおかしてしまった」と涙を流し2つの首に札を付けて九郎親のもとへ送り、自分は山王山(柚木藤山神社の山)において腹をかき切って死んでしまった。このようにして平戸の軍勢は勝ちに乗じて、桃野兵庫を先鋒として、大声を発し打ちかかると、五郎盛の軍勢はわずか4・50人になるように討たれ心ならずも有田唐船城へ引き返して行った。