佐志方城合戦 大村家覚書、中世の針尾島より(一部書き加えあり)

針尾島の完全統治に成功した針尾伊賀守だが大村の三城合戦で自刃してしまう。その後針尾家当主の座を継いだ三郎左衛門は古鯛の針尾城を嫡男で20歳になる太郎兵衛昌治に任せ、15歳になる弟の九左衛門と共に島の中央にある佐志方城で針尾島を統治していた。
平戸の松浦隆信は兼ねてより、針尾島の動向を気にかけていたが、針尾三郎左衛門が大村氏に寝返った事に激怒し(これは表向きの態度でおそらくは大村湾と佐世保湾との間をを仕切る喉もとの針尾島を押さえることが真の目的だったのだろう)嫡男の鎮信と飯盛城主の九郎親を両大将として一千余りの軍勢で海路早岐瀬戸をへて針尾島の佐志方城へ攻撃に向かわせた。その際の道案内役はもともと佐志方城の城主であり針尾伊賀守に城を追い出されることになった佐志方善芳が務めた。
一方、佐志方城の針尾三郎左衛門も弟の九左衛門、それに妻の一族や地下の侍など都合二百人ばかりの手勢で佐志方城に立て籠もった。

時は1572年(元亀3年)もとより数の上で圧倒的に勝る平戸軍は一気に攻め寄せれば城を落とすことも出来ようが、なにぶん佐志方城は早岐水道に突き出た断崖絶壁の丘の上に建てられた天然の要塞であり、相手方も決死の覚悟で応戦してくるであろうから、多くの犠牲者が出るのは予想できた。それならば、勝負を焦ることはせず、油断していると見せかけて相手を城から誘い出すといういわゆる「疑兵作戦」をとったのである。
城内から平戸軍の様子を覗っていた三郎左衛門はこちら側の攻撃に平戸勢が佐志方城の真下から先を争って逃走を開始し三星の旗と鎧の男たちの渦が動き出すのが手に取るように見えたので発作的に立ち上がり、「おっ平戸勢が逃げるぞ!」「面白い脅かしてやるか!」と、従属の若者56人を選び一斉に城を駆け下り「一人残らず討ち取ってしまえ!」「それ、ものども、つづけ!」と命令を下し馬を走らせ不意打ちを仕掛けた。三郎左衛門の激しい気質は父の伊賀守譲りであろうか、重臣らも大将の勢いに出撃を止めることはできなかった。このことが結果、三郎左衛門の大失態となり、まんまと平戸方の罠にはまってしまうのである。

もともと佐志方城の番手でもあり付近の地形に詳しい、中倉幸衛門悪多田佐市は敵が通るであろう進路を予測し、城下の伊勢川海浜の林の中に槍を持って身を潜めていた、逃走する平戸軍を追いかけ勢いづいた兵たちが城から飛び出し目の前を駆け下りてゆく、もとより大将である三郎左衛門の首だけを狙っていた悪多等は雑兵たちには目もくれず、三郎左衛門を待っていた。その時前方より数人の兵士等と共に三郎左衛門の姿が現れた。悪多は林の中から飛び出し、三郎左衛門の馬を力任せに槍で突き刺した。馬はたまらず跳ね上がり、三郎左衛門は不覚にも落馬し地面に叩きつけられた「してやったり」と悦んだ悪多はすばやく組みつき小刀を抜いて鎧通しにわき腹を「ぶすっと」刺し貫いた。とっさの出来事に三郎左衛門はなすすべもなくもがいたが、悪多はその頭を抱えこみながら首を打ち落としたのである。「大将、三郎左衛門討死!」と声を上げた悪多左市の槍の穂先には三郎左衛門の首が突き刺され、高々と天に向け掲げられたのであった。
それを見た城内は完全に意気消沈してしまうが、平戸勢はそれ以上攻撃することはせずに大将三郎左衛門の首をもって帰路についたのである。

平戸で「三郎左衛門の首級、届きましてござります」との報告を受けた隆信は「そうか」と会心の微笑をうかべた。その後、佐志方善芳を使者として佐志方城に残された九左衛門に降伏勧告をつきつけた。その結果、三郎左衛門の首は遺族に返されたが針尾城にいた太郎兵衛昌治は相神浦の九郎親のもとへ人質として差し出され、針尾島は佐志方氏の支配下におかれ、九左衛門は島を追放されることになり、鎌倉中末期から四百有余年続いた地頭、針尾家は事実上滅亡するととなった。
こうして針尾島は平戸松浦氏の領国支配の中に完全に組み込まれたのである


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