西の砦 現在地:洪徳寺西側上の天満宮周辺(藪化して進入困難)

明治43年に発行された「佐世保発達史」ではこの場所を飯盛城としている。この絵図では陰になって見にくいが、現在の洪徳寺の西上の谷伝いに階段状の石塁が続きその最上段に天満宮があり、その辺りに飯盛城があったという。平戸方が陣を張った佐々方面からの海上の動きが見渡せる場所で、地形をみると小字でもある「蔵ノ谷」などの複数の谷の頂点に位置し、周辺に堀切や水堀の遺構もあり、山城の雰囲気を残している。しかし印山記の「麓に大河」という記述や、大曲記の「大宮の前まで寄せられたのを城より見て」との記述とは位置的なズレがあることから、この絵図では西の砦として描いた。
昭和50年代頃まで洪徳寺から尾根伝いに天満宮を通って棚方に抜ける間道を使っていたという。おそらく飯盛城が実在した頃から使っていた間道だと思われる。


西の砦付近に見られる石塁。この場所から上は藪化していて侵入できなかったが、もう少し上に上ると天満宮があるはずで、昔は棚方へと抜ける間道であった。

『明治初期の相浦図』(長崎県立図書館蔵)。この図では西の砦辺りを飯盛城跡として描いている

 
絵図
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