飯盛権現(いいもりごんげん)現在地:鳥居坂を上りきった奥の平場

現在の飯盛神社の前身。天正8年にそれまで小野にあった「熊野権現」を分霊し、「飯盛権現」として洪徳寺境内に移した。洪徳寺の再建と同様に、平戸の支配下となった後の宗教上の拠点としたのだろう。また永きに渡った戦いでの犠牲者への鎮魂の意味もあったと思われる。
飯盛権現には御神体として3体の木像が祀ってあったと記録されている。そのうちの2体が宗金によって造られたものとされ、1体は飯盛神社、2体は洪徳寺に現在も安置されている。
平戸の統治以後も様々な摩擦が起き、天正2年には平戸から来た新しい領主(九郎親)が旧宗家松浦の家臣と差し違えて没するという大事件が起きている。九嘯フ息子幸松丸(定)がまだ4歳のときであった。そのような状況で幼い幸松丸の行く末を案じた宗金が天正5年に幸松丸の多幸を願って造った木像であるとの記録が残っている。天正5年は宗金が亡くなった年で、死の間際まで血の繋がりはなくとも孫にあたる幸松丸(定)のこと、ひいては一族の行く末を気にかけていたことが分かる。


飯盛権現跡地と思われる場所 井戸跡

現在、洪徳寺に祀られている飯盛権現に安置してあったと思われる木像
調査の結果、桃山時代に造られた女神坐像で底辺には「源朝臣幸松、安穏武運、當村安穏、長久子孫」などの文字が書かれていることが分かっている。

 
絵図
HOME