泉福寺(せんぷくじ)現在地:泉福寺観音堂(泉福寺一組公民館)付近

泉福寺という宗家松浦氏ゆかりのお寺が大智庵の城外にあったとの記録がある。現在、泉福寺という名のお寺はどこにもないが泉福寺観音堂(泉福寺一組公民館)付近が寺の跡地ではないかと言われている。「伽藍之元(がらんのもと)」という小字や、主郭から見て鬼門である北東方向に位置することなどからも寺跡で間違いない。
泉福寺観音堂に伝わる「明応元年 願主 次郎左衛門」の銘が入った鰐口の由来は永い間不明だったが、平戸松浦の家臣である大野次郎左衛門が箕坪城の戦いの際に人質として大智庵城に入り、約一年後の人質解放の際に泉福寺の観音様に感謝し、奉納したもので在ることが明らかになった。(※明応元年は宗家松浦14代当主、定が没した年でもあり、その供養のためという説もある。)ちなみに大野次郎左衛門(大野源五郎定久)は人質解放から6年後の明応7年、侍大将として大智庵城攻めの指揮をとっている。
泉福寺は大智庵城落城時に焼失し跡地に観音堂が建てられるが、その後柚木に再建され、しばらくして廃寺となった。現在でも駅・公園・公民館等の名称として泉福寺の名は残り、人々に親しまれている。


泉福寺一組公民館 泉福寺一組公民館

 
絵図
HOME