政公のお墓(まさしこうのはか)現在地:志賀神社麓の鳥居より北に60メートル程
大智庵城現存当時は勿論無かったものだが重要なので描いてみた。
落城の際に没した城主政公のお墓があったと伝わる場所。若くして家督を継ぎ宗家松浦の当主となった政は狩り場での家臣(山田兄弟)への叱責が原因で敵である平戸方へ寝返らせてしまう。結果元家臣による道案内で思わぬ方向より攻められ大智庵城は一夜にして落城してしまう。政公の最後は、城内自害説・城内討取説・佐々山中斬首説・紋珠岳麓で討取説など諸説あるが、私自身は紋珠岳の麓で討ち取られたと考える。『大智庵城に関する諸問題』の中で平川氏もおっしゃってるが、他の説だとわざわざ麓に墓を建てる必要性がないと思うからである。
『大野の郷土史』によるともともと志賀神社の前に周囲を田んぼに囲まれた小さな墓地に立っていたお墓を昭和17年、海軍の工員宿舎建設に伴い現在の大智庵城公園に移設したと記されている。地元の方の話しによると、その際、墓(宝篋印塔)の下に大きな石があったが、そのまま土に埋め、墓(宝篋印塔)のみを移設したという。私の推測だが政公のお墓はその時代の平戸の当主のお墓にも見られるような石を枡形に積み重ねた台座の上に墓碑を載せる形式だったのではないだろうか、墓の下に石があったというのはその台座部分の事かもしれない。とすれば台座の中に埋葬された政公の亡骸は今も土の中に眠っているということになる。墓の移設後にその一帯で度々起きた不幸な出来事は何かを物語っているのかもしれない。
今回松浦史料博物館で見せて頂いた江戸中期制作の『相神浦大野村ノ内大智庵本丸ノ図 北ノ方』古図には鹿大明神の麓の畑の中に二つのお墓が描かれており、お墓の下には石の台座がはっきりと描かれている。政公の墓との記載は無いが『大野の郷土史』や地元の方の話と古図に描かれたお墓の場所が一致しており、政公の墓であることは間違いないと思われる。
古図にも現在の公園内にもお墓はふたつあるが、『大野の郷土史』によると左の小さい方が政公のお墓で右の大きい方が山本右京のお墓だとしている。だが平戸藩の『田舎廻り』が記す「幸松様の石塔と云ひ伝ふと。」の説が正しいのではないだろうか、政公と山本右京の関係はうすく、しかも山本右京の墓はもともと中触にあったものを昭和47年に子孫の方が小舟町の山本家の墓地内に移し現在も祀られてある。ふたつのお墓は政公と幸松丸(のちの親公)親子の墓とした方が自然である。※宗家18代定公の幼名も幸松丸なのでそちらの可能性もある |