間道出入口(かんどうでいりぐち)現在地:瀬戸越の踏切から見て東南方角の藪

一見外側からだと木々が生い茂っていて谷があるようには見えないが、主郭から見て北西方向の角に深く入り込んだ谷がある。印山記によると、狩り場での政公の仕打ちに逆上した山田兄弟が平戸に寝返って大智庵城攻めが始まる。大手門と搦手から鬨の声を上げ、城内の兵の気を引いている隙に、城内に詳しい山田兄弟が道案内をして北側にある人の知らない間道から忍び込み家々に火を付けて廻った。混乱した城内は一気に攻め落とされてしまう。その山田兄弟が忍び入った間道の位置はどこなのか、今まで曖昧であった。今回松浦史料博物館で「大智庵城古図(表題なし)」をよくよく見てみると「深谷古い間道有り」と書かれており、外からは谷があることが分からないとの意味合いのことも書かれおり、方角も主郭から見て北側で一致している。まさに内部の者しか知らない秘密の間道であった事がわかる。
なぜ今まで曖昧だったのかというと、現在一般的に出回っている大智庵城古図(写し)にはその文言は省かれている。間道の位置を示す重要な文言のはずだが、実物を写す際に書き忘れたのか、現在大智庵城公園に設置してある看板に描かれた絵図もおそらくは写しを更に写したもので「深谷古い間道有り」の記述は省かれている。


間道の入り口 大智庵城古図(間道の記述がある箇所)

大智庵城古図(間道の記述がある箇所の拡大図)

 
絵図
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