大島一族 平戸家 家臣
大島筑前照屋
おおしま ちくぜんてるや
大島民部澄月
おおしま 
[???〜1566]
平戸島の上に位置する大島を領していた豪族。古くより平戸家に仕えており、1494年におきた箕坪の戦いでは、大島兄弟の祖父と父にあたる大島胤政親子が箕坪城に立て篭もり、最後までときの将軍である平戸の松浦弘定を守った。

その子である大島兄弟もまた平戸家の重臣として仕え、数々の戦で指揮をとり活躍している。よほど信頼されていたのであろう1550年におきた飯盛山城攻めにおいて平戸の隆信は大島筑前に500の兵に100丁の鉄砲を持たせ鉄砲隊を編成させている。
この鉄砲隊は、その後も相神浦との戦いで活躍し、北野源蔵らを討つなどの功を上げているが、残念ながら大島筑前兄弟の死後である。

兄弟の最後の姿は印山記に鮮明に描かれている。半坂〜中里の合戦で相神浦方の伏兵による奇襲や北野源蔵の活躍で平戸軍は敗退。大島兄弟は、敗走する平戸軍のしんがりを勤め必死に防ぐも乱戦の中、平戸方の武将が次々と討ち取られる。奈留三郎左衛門、宮崎蔵人、中山治部兄弟、山田忠左衛門兄弟、柴加田市之丞、南蔵人、佐々刑部、太田弾正などが討ち死に。
先に弟の澄月が敵に囲まれ、もはやこれまでと辞世の句を詠み自害。「澄月の村たつ雲に誘われて暫しは影の見えぬ有明」兄の照屋は、弟の敵と奮戦を続けるも最後は力付き「定めなき雲かくれとは思えども見へすは惜しき有明の月」 の句を詠み北川兵部に首を打たれ壮絶な最後を遂げる。
当時、科学の最先端で高価なものであった鉄砲を100丁も持たせその指揮をとるのはよほどのことであっただろう。また印山記に時世の句まで書かれている武将は稀で、そのことからも平戸家にとって大島兄弟は重要人物だったのだろう。
しかし、その子孫たちの平戸家との関係は悪化し最終的に平戸家を出て行くことになる。