犬堂観音いぬどうかんのん

広田から宮に通じる県道の途中に番所峠と呼ばれる峠がある。かつてはその名の通り番所(関所)があった場所で「舳の峰峠(へのみねとうげ)」と呼ばれていた。

広田城で大村軍を破った松浦軍はその後天正14年9月彼杵城に攻め寄せるも反撃され敗退する。そうして大村氏と松浦氏の長きにわたる争いも終焉を迎え、両家共に平和的外交の処置が得策だとの考えから和解が成立し、大村家からは大村与市が代表となり松浦家からは長崎主膳が代表として選ばれ境界を定めることになった、会談の場所は両者が自然に出会った場所にすると定めた。
天正14年1586年10月3日。舳の峯峠で相対した両者だったが大村余市は「旧領である早岐までを大村の領地とすべし」と主張し長崎主膳は「宮を含め川棚峠までは平戸の領地故にそこが当然だ」と反論し、双方問答論議した。結局は両者の主張が並行してまとまらなかったが、両者が会談をしている舳の峰峠をもって境界とすることで解決した。

江戸時代になると街道が整備され、平戸城下から福岡長崎方面に通じる平戸街道の要衝として大村藩と平戸藩の双方から役人が常駐し小銃、刺又、袖からみ、つく棒、槍などを備え周囲は竹矢来(たけやらい)をめぐらして通行人を厳重に検察した。ここを通るには「往来手形」を必要とし、持っていない者は通ることを許されなかったという
峠から県道を重尾方面に下った左側に八並家がある。家の庭に当時の境石2つとおてつき石が残されている。長い境石には「従是西平戸藩支配所」小さい境石には「従是西平戸領」と彫ってあり、長い境石は比較的に新しく幕末藩右筆の多賀南岐が書いたもので、小さい境石は元禄三年(1690)にそれまで木碑だったのを石碑に変えたものといわれている。かの吉田松陰も寛永3年(1850)にここを通っており、西遊記に「山を越えて又小坂あり、への峰という。坂の頂きに大村領平戸領の境碑あり、行くこと少しばかりにて門あり、門内衛卒(えいそつ)あり小銃三口、槍数根を備う」と書き残しており、境碑とはこの境石のことだと思われる。この境碑はいつの頃からか八並家の庭に移動されたもので、元々どの付近に建っていたのかは不明である。「従是南大村領」と刻んであったはずの大村藩側の藩堺石は元の宮小学校の正門脇にあったと言われているが残念なことに、昭和44年校舎移転の際、行方不明となった。
この八並家のご先祖は舳の峯番所の役人で番所が廃所される明治初年まで勤めていたという。
八並家より宮方面に500m程登った左手に八並家所有の果樹園がある。そこが当時の番所跡地といわれており、記念の石塔が建てられている。そこにある古家が八並家と同じく番所の役人であった近藤家の旧家であるというが現在は引越されて無人になっている。


<レポート>

1月22日小雨の降る中、境石が保管されているという八並家に伺った。2つの境石は保護シートを掛けられておりとても大切に保管されている姿が見てとれた。ご主人の話で昔は当時の番所の見取り図があったらしいが残念ながら今は無いという、どなたか所在をご存知の方がいれば教えてほしいのものだ。
写真の承諾を得て、街道の道筋と番所跡地を伺い失礼した。私の質問にも快く応じて頂いたご主人に深く感謝したい。
平成11年に発行された「広田の郷土史」には「此の番所はその昔伊藤博文、木戸孝充、吉田松陰、坂本龍馬、高野長英、平賀源内、等々、蘭学、電気学、漢字学等にゆかりをもつ達人達が長崎を訪れた際、みんなここを通ったと言われ由緒ある番所である。」としている。坂本龍馬がここを通ったかは疑わしいが、歴史に名を残す偉人たちがまだ見ぬ土地に夢を抱き、この峠を歩いていたのかと思うと、とても感慨深いものがある。


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