舳の峰峠へのみねとうげ(番所峠)広田から宮に通じる県道の途中に番所峠と呼ばれる峠がある。かつてはその名の通り番所(関所)があった場所で「舳の峰峠(へのみねとうげ)」と呼ばれていた。 広田城で大村軍を破った松浦軍はその後天正14年9月彼杵城に攻め寄せるも反撃され敗退する。そうして大村氏と松浦氏の長きにわたる争いも終焉を迎え、両家共に平和的外交の処置が得策だとの考えから和解が成立し、大村家からは大村与市が代表となり松浦家からは長崎主膳が代表として選ばれ境界を定めることになった、会談の場所は両者が自然に出会った場所にすると定めた。 江戸時代になると街道が整備され、平戸城下から福岡長崎方面に通じる平戸街道の要衝として大村藩と平戸藩の双方から役人が常駐し小銃、刺又、袖からみ、つく棒、槍などを備え周囲は竹矢来(たけやらい)をめぐらして通行人を厳重に検察した。ここを通るには「往来手形」を必要とし、持っていない者は通ることを許されなかったという |
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<レポート> 1月22日小雨の降る中、境石が保管されているという八並家に伺った。2つの境石は保護シートを掛けられておりとても大切に保管されている姿が見てとれた。ご主人の話で昔は当時の番所の見取り図があったらしいが残念ながら今は無いという、どなたか所在をご存知の方がいれば教えてほしいのものだ。 |
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