城の歴史
鎌倉時代から室町、戦国時代にかけて世知原を領有していたのは、直谷城主の志佐氏だが、実際に土地を治めていたのは、志佐氏の家臣である百枝氏(後の世知原氏)と都蔵寺氏という2つの豪族だった。世知原氏は普段は館で暮らし、敵が攻めてきた時には、その館を見下ろす山城に籠もって戦った。その後、志佐氏が平戸松浦氏の家臣になると共に世知原は平戸松浦氏の領地となる。1592年(文禄元)に始まった豊臣秀吉による朝鮮出兵では、世知原修理と都蔵寺式部も平戸の松浦鎮信の配下として出陣している。
みどころ
城が造られた年代ははっきりした記録もないが、「松浦家世伝」という古い記録によると、直谷城主であった志佐純元の子、定治が、世知原領主、百枝甲斐守仙甫の養子となっている。城が造られたのはその頃で、430年前にさかのぼる天正年間以前と考えられる。この城山は、10メートル近い岩壁が立ち並び、上からの展望が利き、攻めにくい城塞であったと伝えられている。
世知原の中通りを通る県道から曲がって、北川内天満宮に向かう町道の途中、東南の方向にこんもりとした森が見える。この小高い丘の山を城山という。現在の城山団地側が炭鉱のボタで埋められ、住宅地となり、切り立った城塞の面影は今はないが、世知原館側に押し出されるようにして、供養塔がひっそりと残っている。
補 足
今でも世知原館には世知原氏の御子息が住んでおられ、館を囲む石塁が当時のまま残っている。
|