横瀬浦襲撃事件 ふるさと歴史めぐりより(一部書き加え)
1561年(永禄4)8月に平戸で起こった宮の前事件では、船長および13名のポルトガル人が殺された。これを契機に、ポルトガル船は平戸を避け横瀬浦を新しい港に選び、領主である大村純忠(すみただ)と開港協定を結んだ。貿易における免税、布教の自由などの特権が与えられた横瀬浦は大いに繁栄。大村純忠はこの地で洗礼をうけ、日本ではじめてのキリシタン大名となった。
そのような横瀬浦の繁栄の陰で不穏な動きをみせる者がいた。武雄の後藤貴明である。
大村純忠は島原の有馬氏から迎えられた養子であり、もともと大村家の人間ではなかった。武雄の領主、後藤貴明(ごとうたかあき)こそが、大村家の長男、つまり正当な跡取りだったのだ。大村家の跡継ぎを約束されていたはずなのに、他家に養子に出された貴明は純忠を憎み、生涯を通して大村を天敵としていた。
また、大村純忠の家臣の中にもキリシタンとなった純忠に反発し、貴明こそが真の主(あるじ)と考える者も少なくなかった。
遂に後藤貴明はキリシタンと純忠の両方を排除すべく、横瀬と大村の城下町を同時に襲う計画を立てた。
時は、1563年(永禄6)8月。
横瀬を針尾伊賀守が、大村の城下町を後藤貴明がそれぞれ襲撃した。
当時の針尾氏の当主、針尾伊賀守はこの横瀬浦の奉行を務めており、純忠の招きで横瀬浦から大村へ向かう外国人宣教師たちの船を針尾瀬戸で襲った。
幸いにも宣教師たちは急病のため船に乗っておらず助かったのだが、大村純忠の使者である朝長新助(ともながしんすけ)は油断していたこともあり、殺されてしまう。
結果として、後藤貴明の城下町襲撃も失敗に終わり、宣教師も純忠も難を逃れた。
だが、横瀬の町は、この事件の混乱を利用して貿易代金の踏み倒しを狙った豊後(大分)の商人によって焼き払われてしまい。教会が建ち、商人も集まって貿易港として発展しようとした矢先の事件で、わずか1年という短い期間で、横瀬はもとの寂しい港に戻ってしまったという。