宗家相神浦 連歌師
手光 宗作
てびか そうさく
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相神浦に住んでいた連歌師。
この人はもともとは裕福な時期もあったが、平戸松浦の長期に渡る飯盛城攻めにより、食料がなくなり米ぬかばかりを食べ飢えをしのいでいた。そんな彼を見てのことか、永禄11年の春の頃、大きな椎の木の幹を削って和歌が書かれていた
「人は皆 四月五月に田を植える
      宗作ばかりは 春植えをする」
ようするに、四月五月の暖かい時期に植えなければならない水田を春のまだ寒い時期に植えなければならないほど飢えているということ。
それからしばらくして、夏になると、その横に
「春過ぎて 夏季の麦も城絶えに
      腹をほすてふ 事をかく山」
と彫られていた。すなわち、米も麦もこの城からは無くなってしまった、腹が空いてたまらないが、どうしようもない飯盛山である。との意味だった。
どこの誰が彫ったのか、もしかしたら手光宗作本人が彫ったのかは判らないが、これは領民みんなの声であったのかもしれない。
一説には、城主の丹後守親はこの和歌を見て、和睦の道を決意したとも言われている。武力では決して屈することのなかった丹後守親を最後に動かしたのは民の声だったのかもしれない。
宗作の死後も手光一族は繁栄したのだろうか、筒井町に一族の墓が残されている。

佐世保市筒井町
お滝の観音近く

型:記念碑