平戸家 家臣
北川長介
きたがわちょうすけ
[???〜???年]
 

出生は不明。北川長介の名は印山記に登場しその活躍ぶりを今に伝えている。
広田城の戦いが終わり、城主の佐々可雲佐志方善方は平戸の松浦鎮信のお墨付をうけ彼杵攻めへ出船する。だがその途中で大村與市(おおむらよいち)等の反撃にあい可雲は金重島にて切腹。善方は島の洞穴に身を隠し難を逃れた。北川長介も平戸方として2人の船に乗っていたが水夫の姿に変装し難を逃れようとしたところを見つかり生け捕られ、可雲の首と共に與市の船に捕らえられてしまった。兵船は大村目指して進み長介の命ももはやこれまでかと思われた。
一方、この知らせを聞いた善方の子、佐志方庄兵衛は針尾瀬戸にて小舟6・7隻で與市を待ち受け、侍50〜60人で矢を数限りなく打ち、船を乗っ取り100人余りを討ち取った。だが與市の兵船は生き延び夜になって早岐の瀬戸を落していった。その途中早岐の城内に使える喜六と名乗る下人が小舟で近寄り、「私に金銀をくだされ、命を保証して頂ければ、大村方の味方になり、早岐の役所に火を懸けてみせます」と言い寄ってきた與市は快く承諾し「お前たちの恩賞はその功によるであろう、近日内通すべきぞ」と説いていた。
これを船底で聞いていた北川長介ははかりごとを阻止すべく、敵兵をまんまと騙し船上へ出て、縄を取っている侍をひきずって海へ飛び込んだ。水練も達者、縄ぬけも名人であったため、可雲の首を持ち、水底を潜り、向こう岸へ飛び上がり、さまざまな大村方の悪口を言って早岐の城へ入った。それを見た與市は歯がみをして怒った。その後、長介は地域の人々から「天晴れ大剛の北川」と称えられ有名人になったという。