針尾城主
針尾伊賀守貞冶
はりおいがのかみさだはる
[???〜1572年]

世界史の舞台に登場する武将。
小さな島の武将が世界史に登場するのは稀だが、残念ながらどちらというと悪役として登場している。
大村領内で当時貿易港として栄えていた横瀬浦で奉行として務めていた伊賀守は、武雄の後藤貴明と共謀して、おそらく横瀬浦の実権を我が手にともくろんだのだろう、大村純忠に反旗をひるがえし、針尾瀬戸で外国人宣教師たちを襲った。しかし宣教師たちは急病のため船に乗っておらず助かったが、大村純忠からの信頼が厚かった朝長新助(ドン・ルイス)一行が殺された。
これに怒った大村純忠は針尾の領地を焼却し、伊賀守は追放を余儀なくされ、遠方の地で発狂し、不幸で悲惨な死を遂げたといわれている。
この一連の事件を書き残したのは、危うく助かった宣教師の一人、ルイス・フロイスで伊賀守を「ハリボウ」と紹介し、「この殿は、大村(湾)の海水が極めて激しい潮流となって入ってくるある海峡に城を構えていた」と「日本史」に記している。それが現在の針尾中町にあった針尾城である。
追記
「日本史」によると伊賀守の最後は遠方の地で発狂死したとされているが実際はちがっていたようである。横瀬浦事件後、更に大村純忠を排するために後藤・松浦・西郷の連合軍の一員として永禄6年8月の松岳城攻め、永禄7年の皆瀬山合戦、永禄9年の野岳合戦と次々に参戦した。しかし皆瀬山合戦では長男二郎左衛門を戦死させ、野岳合戦では52歳で出陣し、大村方の一瀬八郎兵衛に組み伏せられ、危ないところを家臣の大曲舎人に助けられた。最後は元亀3年7月の三条合戦で、58歳の高齢にもかかわらず出陣し、敵弾を受けついにこれまでと自決した。
遺体はそこから軍船で針尾島に運ばれ荼毘(だび)にふされた。
まさに戦いに明け暮れた生涯で生傷も多かったであろう、戦国の世に西の端の小島で光を放った伊賀守、いわゆる“ただ者ではない”武将だったに違いない。