いきさつ

武辺城跡は昭和56年度に実施した「佐世保市中世山城分布調査」で、最初に大まかな城域が把握された。この段階で県北地域で最大規模の山城であることがわかった。
それ以降、重要性は認識されながらも調査する機会がなかったが、平成4年になり佐世保市は相浦川流域の史跡保全を検討する構想に入り、平成6年に試堀調査が行われ、主曲輪から大型建物を想定させる大型柱穴3が検出されるに伴って15世紀頃の国産の輸入陶磁器が出土し、平成7年度の第1次、更に平成8年10月から9年3月の2年間にわたる本格的な第2次発掘調査が行われ、合わせて平成7〜9年の3年間にかけての発掘調査となった。
尚、西九州自動車道建設工事に伴い1平成17年から20年にかけて西曲輪と南曲輪とに繋がる部分及び谷部分が城の大手に当たる可能性があるため調査を行ったが、残念ながら武辺城に関する15・16世紀の遺構や遺物はほとんど確認できなかった。そのためここでは割愛させていただく。

はじめに

佐世保市の遺跡といえば、国の重要文化財にもなっている約12,000-13,000年前といわれる世界最古級の土器である豆粒文土器(とうりゅうもんどき)が発見された泉福寺洞窟をはじめ国史跡「福井洞窟」や県史跡「岩下洞窟」、弥生集落の「四反田遺跡(したんだいせき)」などの旧石器時代から弥生時代の全国的にも重要な遺跡群があり、また近世では日本工芸史のなかでやはり重要な位置を占める「三川内古窯跡群」などの遺跡によって先史と近世の大きく二つの時代の歴史が充実しているように見受けられており、その間の中世の遺跡は具体的な調査が少なかったこともあり、時代的には希薄な様相に捉えられていました。しかし、佐世保は宗家松浦の本拠地がおかれていたこともあり、山城跡や石塔など多くの中世遺跡が残されている場所なのです。
そのような背景において今回の武辺城の調査は画期的な成果をもたらしました。特にこの時代の建物跡の発見は長崎県下では初めてであり、全国的な視野においても希な例となります。

 
建物の遺構(写真をクリックすると大きくなり詳細が見れます)
 
1号建物 2号建物 3号建物 4号建物 5号建物
 
6号建物 7号建物 その他 建物比較  
 
まとめ
武辺城跡主曲輪には以上確認した分で7棟の建物があり、その他にも何かしらの構造物があるらしい。
調査は限定された日程の都合もあり、遺構の確認は主に平場の土塁に近い岩盤面で行ったため、平場の南半分の造成面ではほとんど遺構を検出しておらず。また主殿とされる3号建物の前面に鉄塔があり調査を一部困難にしている。
これまでの柱穴とは別に4号建物の南面に柱穴が確認されており、未確認である平場の南側一帯に向かって何かしらの建物があった可能性がある。今後の課題として厩(馬小屋)や厩(調理場)、倉庫や防御のための櫓門や塀などの遺構発見の可能性が大きく残されている。
 

遺 物

遺物は@国産陶器、A中国陶器、B朝鮮青磁・陶器類、C土器、D茶臼・銅釘等が検出された。
@国産陶器
備前と九州系陶器があり9割以上を備前ガ占めている。出土場所は主曲輪平面の全面に均等して分布している。
A中国陶器
14世紀後半から16世紀前半期に中国で生産された青磁と黒喝釉陶器で黒喝釉陶器の一部は東南アジア産も混じる可能性がある。
一部に火を受けているものもある。

B朝鮮青磁・陶器類
青磁、粉青沙器、陶器皿碗、褐釉陶器がある。一部火を受けている
C土器
10の出土で他に土師器の皿が3号建物の西列柱穴から出土し、第1次調査でも1号建物の柱穴から出ている地鎮(じちん)のための祭祀(さいし)に用いられた可能性がある。

Dその他
地元産の可能性が高い茶臼。先端が欠損した銅釘、第1次調査で出土した鉄釘と同じ様式であるが、銅という素材と小さいことから建物用ではなく家具等の小物に使用された物だろう。

まとめ
武辺城跡は15世紀末を境に遺物はなくなり、その後主曲輪で18世紀になって陶磁器類が見られるようになる。
これは畑となったもので明治期まで継続し、その後植林されて1982年の確認までは杉山であった。

 


 
 
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