■所在地 /竹辺町■創建者 /宗家松浦13代盛(さかり)・4代遶(めぐる)■年 代 /嘉吉3(1443)〜明応7年(1498)
■形 式 /山城 ■規 模/東西800m×南北500m ■標 高 /77.4m 
■遺 構 /畝状竪堀・空堀・竪堀・曲輪・堀切・建物跡・土塁・石塁・陶器ほか出土品


城の歴史

松浦郡志佐郷今福にある梶谷城(かじやじょう)を本拠地としていた宗家松浦氏は3代目当主松浦清(きよし)の頃には、相浦の地をも領していました。その清の子・蕘(めぐる)が相浦の地を重視して1202(建仁2年)に武辺の地に城館を構えた。という説がありますが、一般的には1443年前後に同じく宗家松浦13代目の盛(さかり)が、平戸松浦氏や和冦による圧迫からの回避と、朝鮮・中国との貿易港を求めてとの理由から本拠地を松浦から相神浦へ移し、城を築いたとされています。

平成7〜9年と平成17〜18年にかけて行われた発掘調査により、数多くの柱穴跡や陶器などの出土品が確認されました。朝鮮製の陶磁器の出土品から盛が行ったとされる朝鮮との歳遣船貿易(さいけんせんぼうえき)の記録とも一致し、盛がこの地で貿易による利益などで宗家松浦の基盤作りを行っていたことが確認されました。やがて1490(延徳2年)14代定(さだむ)の頃に平戸松浦氏などの諸豪の侵攻にそなえ、居城を大智庵城に移し、武辺城は支城となったといわれています。その後1498(明応7年)に大智庵城は平戸松浦氏による攻撃で落城してしまいます。宗家松浦は相神浦の地を失うことになり、武辺城はその時点で無住化して廃絶したと考えられます。
したがって武辺城が機能した期間は約55年間となります。県北最大規模を誇り、重厚な構えをみせる城にしては寿命が短く、大智庵城に居城を移した理由がいまひとつ不透明であり、今後の課題となっています。

武辺城での詳しい大戦の記録は今のところ見当たりませんが、出土品の陶器類に火を受けた物がみられ、大智庵城落城の年代と重なることから、大智庵城攻めの際に、平戸松浦によって同時に武辺城も攻められた可能性があるとも考えられます。また『日本城郭体系』によれば「永禄の飯盛城の戦いでは平戸松浦勢が武辺を攻めているのである。おそらく本拠を大智庵城に移し、さらにまた飯盛城においた間も、ここに支城ないし砦があったものと思われる」としています。
このようなことから、今のところ記録には残されていませんが、武辺城は常に平戸松浦氏の標的に置かれ、攻撃の対象になっていたことがうかがえます。

みどころ

将冠岳(しょうかんだけ)から西へ派生した尾根の先端付近に築かれています。
北側にある住宅地の奥の墓地から山へ入ると、まず左手になんとも異様な形状の畝状竪堀群(うねじょうたてぼりぐん)があります。一般的に竪堀群は同方向へ並行しているのですが、ここの竪堀群は北方向と西方向に設けられ、城への入口をかく乱するような感じで設けられています。このような複雑な構造の竪堀は特例に値し、市内ではここだけです。これは、城の北側が平野部から主曲輪までの直線距離が一番短く、構えを厳重にする必要があったからだと思われます。
そこから、右へ大きくカーブしながら200mほど登るとようやく本丸平場に立つ鉄塔が見えてきます。本丸への最短距離からの登山とはいえ、かなりの距離を歩いた感があり、城の規模の大きさを感じます。平場に立つと東方向に一段高く盛られた高台があります。これが天守台または櫓台跡で、城の最頂部になります。本丸平場から西曲輪と南曲輪へと伸びる尾根の間の谷間が大手といわれ、平場と石塁が確認されます。当時はここが城の出入口だったようです。平場から四方へ伸びるそれぞれの尾根の先端に曲輪が配置され、その規模は東西約800m南北約500m、約400uとなり県北地域で最大の規模となります。

宗家松浦氏佐世保地方進出の最初の居城で、発掘調査も行われている城跡のわりには、案内板も標柱もなく未整備でむき出しの遺構という感じですが一部炭鉱のボタによる堆積(たいせき)で地形が変わっている以外は、構築当時の面影をよく残しているといえます。
現在は新しくできた高速道路が南曲輪を横断してはしっていますが、本丸付近は壊されることなく残っています。

補 足

武辺城付近、おもに相浦川沿いの地域一帯からは以前から多くの遺跡が発見されており、太古から人々の生活の場となっていたことが伺える地域です。
南曲輪の麓にある阿弥陀堂からは鎌倉時代・南北朝時代のものと推定される五輪の塔の残欠が発見されており、13代盛がこの地へやってくる前の段階で有力な人物がこの地にいたことを証明するもので、本拠地移転の年代を解明するうえで、重要な石塔といわれてます。
他にも東漸寺、新豊寺(現在の供徳寺の前身)、大宮姫神社など、宗家松浦と関わりのあるお寺や遺構が数多く残され、佐世保の中世史を解明する上で重要な地域であり、今後も新発見の期待の持てる場所であります。

現在は城山の麓から相浦川までは距離がありますが、築城当時は麓のそばまでが入り江となり水が入り込んでいたそうです。私的な感想ですが、当時の武辺城から見る愛宕山は、今よりも広い相浦川にその姿を映し、まさに逆さ富士のごとき美しさだったのではと想像します。また東漸寺から八幡神社近辺の路地を見ると昔の武家屋敷のようなおもむきが感じられ、城の大手とは反対方向にはなりますが、宗家松浦の家臣団の屋敷がここに並んでいたのではと想像させてくれます。

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